ぐしゃぐしゃとした感覚
食べ過ぎ飲みすぎだなと感じたので摂生に努めようと少しずつ食事や運動を進めています。
2021年ごろから自宅での飲酒はほとんどしなくなっていましたが、
食事は人一倍とっていたようでして(いわゆる大盛りなどをたべてしまう性質で…)。
調整中ではあるもの食事量を減らした今はほどよい空腹感で、脳みそにも血が巡っている心地よい気持ちでブログを書いています。
少し前までは断食のようなもの、例えば16時間断食のような思い切ったことを始めようとでも思っていましたが、この程度の工夫で頭が冴えて(=心身がリラックスして)質の高い睡眠を迎えられるならこの上ないことだなと思うばかりです。
振り返ると日常的に食べすぎという馬鹿な真似をしていたのだなと我ながら呆れます。
(マットレスを買い替えたほんの少し前も、変革をやったあとに反省が効くという構図というか、この状態でしたね)
さて頭が冴えたので少し頭に浮かんだことを書こうと思います。
私はなぜなぜ的なことや疑問が好きだったなとふと思い返します。
精神的に幼いといえばそうですが、事象や物事に興味を持つきっかけとして
「なぜ?」「どこに?」「どうやって?」という不思議がりや思いが溢れている状態。
その思いをもっていた過去とその流れに立つ私がまだ生きているのを感じます。
車載動画を作っていたのも、歴史や制度システムに興味を持っていたのも
こういう原初体験的な姿勢が根っこにあるからだったんだな、と内省ばかりで。
ただ「質問をする人」があまり好意的に受け入れられない昔の経験(もちろんそのたの要素も含む)があり、
人が怖い、質問できないという人格が私を作っていきました。
(どうして?という質問はどの場面でもクリティカルな言辞だなと気づくようになりました)
コミュニケーション能力というのは少年期に熟成するので、逆説的に言えば、今になって演技してみたりむりに人に合わせようとも思いません。
ひとと比べたところに悦楽を求めようと思わない。これは実に楽で。
ああ東京生活も早く終わらせて物事を進めたいな。
ひとりぼっち東京、東京賛歌。
おわり